読書記録

読了した書物をアマゾンのリンクで表示しています。当初は感想や要約なども記載していましたが、読むスピードと書くスピードが圧倒的に違うため、断念して書名だけ記載しています。後日書けるようになったら書きます。印象に残った記述は関連のhikaru_fujita blogに感想を書いています。私の写真の下のリンクをクリックしてください。

Friday, December 31, 2004

誰のためのデザイン?

誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論
ドナルド・A. ノーマン 野島 久雄

新曜社
1990-02
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単純なものに絵やラベルの説明が必要であるとしたら、そのデザインは失敗だ。というのがこの本のはじめの部分で強調されていることである。


普通の人は、道具をうまく使えない場合、自分の使い方が悪いのだろうと考えてしまう。これは道具を使う場合以外で物事がうまくいかない場合に人々が取る行動となぜか逆になっている。道具以外で人はその原因と責任を周囲の事情や他人に求めたがる。ところがなぜか道具の使い方についてはデザインが悪いとなかなか思わないらしい。


あることをする際の速度および結果の質とそれに必要な頭脳労働の間にはトレードオフがある。そのため、町の中で道を探したり、店や家の中でももののありかを探したり、複雑な機械を使ったりするときに、なにを学ぶ必要があるかは、このトレードオフによって決まることがある。外界から情報が得られることが確実ならば、行おうとすることの質を維持できる程度の正確さで記憶の中に情報がコード化されていればいい。人が自分の環境の中でちゃんと活動できるにもかかわらず、自分が何をしているかを言葉にして説明できない理由のひとつがこれである。


手続き的な知識は文章にするのは難しく、不可能なこともある。また、それを教えるのは困難である。やって見せることによって教え、やってみることによって学ぶのがいちばんよい。非常に優れた教師でさえも、普通、自分がやっていることを言葉にして記述することはできない。手続き的な知識の多くは意識下に隠れている。


これらは情報の経済と言えるだろう。生命はひとりでに最も効率のよい判断装置を作り上げているともいえる。


選択肢の数を制限してくれる日常場面で存在する制約の例として、どの文化においてもある社会的状況で許容される行為の集合と言うものがあり、はじめていったレストランでもどう行動したらいいかわかるのはこのガイドラインによるということを述べている。これらは「状況を解釈し、行動を方向付けるための一般的なルールと情報を含んだ知識構造(スキーマ)」および特殊化された場面では「一連の行動を手引きしてくれる台本(スクリプト)」として表現され、また受け入れられる行動に関する「社会的制約(フレーム)」といわれている。


つぎに意識的な行動と無意識的な行動につきつぎのようにも述べている。


意識的な行動は遅く、また逐次的なものとなりやすい。意識的な処理には短期記憶がかかわっているようで、それゆえただちにアクセスできる量には制約がある。また、意識的な思考は短期記憶の容量の小ささにきわめて強く制限されている。ある瞬間に利用可能な項目の数はせいぜい全部で5個か6個である。意識的でない思考とても意識のひとつの道具であり、適切な構造が見つかったときのみこの記憶の限界を乗り越えることができる。いくつもの相互に無関連なものを全部あわせてひとつの構造にしてしまえば記憶するのは簡単になる。


一方なぜミステークが生じるかというと現在の状況を過去に起こったことと誤って重ね合わせてしまうというマッチングの誤りが原因である。われわれは現在の状況と一致する例を過去から見つけだすのには本当に優れた能力を持っているのだけれども、そこで見つかる例は次の2つの歪みのいずれかを受けている。


ひとつは過去を標準化する(プロトタイプ的な状況)方向への歪み。そして他からかけ離れた独特な方向への歪みである。


微妙なものではあるが多くの事故の中で目立ってくるのが社会的圧力である。社会的圧力は一見デザインには何のかかわりもないように思えるが、普段の生活に強い影響を及ぼしている。工場などでも社会的圧力のせいで誤った解釈やミステーク、そして事故が起こることがある。


したがって、デザイナーはユーザーがエラーをしていると考えるべきではないという教訓を得る。


ただひとつのよい製品に固執したり、自然な進化がゆっくりと完成の域に達するのに満足しているような企業はほとんどない。そして「最新の改良型」モデルが消費者にとって大迷惑となる。デザインの世界に民間伝承のように伝わっているデザインのやり方はすべて失われてしまうのである。



アンナカレーニナ

アンナ・カレーニナ (上巻)
トルストイ

新潮社
1972-02
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昭和27年10月初版発行


購入は、昭和40年4月(1965年)新宿紀伊国屋・・実に40年前である。


小説の筋は忘れてしまった。アンナが自らその命を絶つところでの必然性というようなものに納得していた気がする。しかしなによりこの小説に私がいまでもこだわるのは、人間の関係の最もむつかしい面、最も大切な面を端的に提示してくれているそのテーマにある。


なにがアンナを導き、どうしてこのような結末になったか。自分ではどうしようもないこと、理屈や常識では解決し得ないことが現実にどこにでもあるし、普通の人ならばその中で苦しみや悲しみを抱えて生きているのだ。


この小説の迫力はまさにそのどうしようもない流れを読む人に体験させるところにある。lang=EN-US>20歳になったばかりの頃に読んだ印象は非常に強烈であったし、またやりきれなさを感じたことも事実である。


人と人がお互いに理解しあい、やさしく思いやることのできる普通の生活がどうしてむつかしいのか。人間はその余裕を持つことが苦手らしい。悩みの多い人はこれを読むと自分が客観的にどうなっているか少しはわかるだろう。



生態学的視覚論

生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る
J.J.ギブソン

サイエンス社
1986-03
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この書物は、1985年4月に最初の翻訳が出版されている  原著初版は1979年


私の購入したのは1997年2月出版の初版第5刷


私がギブソンを知ったのはおそらくほかの人とは違った経緯だと思う。ギブソンは心理学者として有名であり、またアフォーダンスに関する理論でわが国にもいろいろな形で紹介されているため、心理学、認識論の新しい考え方を提唱している人として捉えられていると思う。しかし、私の場合ギブソンはベイトソンの認識論、ヴァレラのオートポイエーシス論を読み進むうちに行きあったった。


したがって、この本でギブソンが「感覚入力に基礎を置く知覚の説明はうまくいかない」との主張をしているところが私のギブソンへの入り口である。


周囲のいろいろな人の書物でギブソンの先鋭的な主張をなんとなく感じているところに岩波科学ライブラリーで佐々木正人氏の「アフォーダンス新しい認知の理論」や現代思想1997年2月号「アフォーダンスの視座」に触れ、ギブソンを読む気になった。


この書物でギブソンのいいたいことは、視覚において光束から不変項を抽出することが環境の知覚であり環境の中での自己の認識であるということであろう。彼はことごとくデカルト的な認識、古来受け継がれ、われわれが教えられた知識が事実と相違していると主張している。その話の背後には実体験にもとづいた判断が入っていて、なにを主張すべきか言葉の見当たらないもどかしさがよく伝わってくる。


ギブソンの主張で最も感心したのは「個体は環境に定位する」という部分である。感覚を持つということではなく、検出する(detecting)という意味で、動物や人間は環境を感受する(sense)のだというのである。それは地形の鳥瞰図を持つというよりも、むしろあらゆる場所に同時にいるということであるというのだ。


鳥瞰図を得ることは定位するようになるのに役立ち、したがって探索者はできるだけ高い場所から見下ろそうとする。しかし、見えない目標に対する定位とは見下ろすことではないし、地図を持つことでもない。ましてや紙の上でなくて心の中に存在すると想定される「認知的」地図でもない。地図はハイカーが道に迷ったときに役に立つ発明品であるが、発明品とその発明品が促す心理状態とを混同すべきではないというのである。


このギブソンの主張はなんとなくベルグソンを思い起こさせる。時間の捕らえ方、流れを重視するところに限りない魅力がある。私にとって荒削りでわけのわからないところはあるが、ギブソンの考え方は非常に強力なものと映っている。


会計物語と時間

会計物語と時間―パラダイム再生
青柳 文司

多賀出版
1998-07
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この書物は1998年7月出版されている。私は初版本を購入し、同年読んだ。


この書物は壮大な構想を持って書かれた書物である。会計の書物というより思想書と言うほうがあたっているだろう。そして、私の日頃抱いている関心事の3割方は、この著者の関心事と重複する。その意味では非常に興味深く読んだし、頭の中が整理されたといえる。


まず、記号としての時間について著者は記号と対象、記号と意味の両面性は相互関係が重要であると強調している。すなわち、時間は、言葉の意味と同様に人と人との関係にもとづく人と物との関係とみられる。意味論は記号とそれが指向する対象との関係を考えるが、その記号を使用する人はつねに他人との間の一定の関係に置かれた人である。人間関係が基礎になる二重の関係となるので、時間の意味論も語用論に立脚する。


リクールがみたように、歴史が言語的に制作された物語であるならば、会計言語によって企業の歴史物語が制作され、この物語によって企業の歴史が創造される。それゆえ、制御の過程は物語的時間を物理的時間にまで遡及する。


つぎに、場としての組織を構文論的にみれば、役割は「組織における一定の位置が持つ権限と特権および責任と義務の総和」と定義される。語用論的にみれば、役割を受け持つ人がとるべき行動、彼の人柄、思想、信念、人間関係のあり方などへの組織からの期待が役割を規定する。また、役割期待や権限と責任にもとづく組織成員の役割行動が生む所産は役割業績と呼ばれる。これが役割の意味論的側面である。


組織はいわゆる情報システムを対象システムとするメタ情報システムである。これらを識別すれば、環境適応理論と呼ばれるコンティンジェンシーセオリーが、組織記号論とつながる。シービオクによれば、記号論の主要な課題は世界認識をいかに拡大させるかということにある。


恣意性の高い会計言語でなく、エンジニアの合理性の高い能率言語で現場の状況をみれば、設備、技術の実質的な使用価値、保全ができる。技術の素養のない経営者は、財務尺度だけで企業を見ようとしがちである。技術尺度で企業を見れば、組織空間はまた違ったものに見えてくる。各言語の記号場に応じた空間が見えるよう、言語の種類と規約の選択を組織の情報場が行うのである。


財務諸表の陳述は、それが陳述する会社の財政状態や経営成績が存在することに会計主体である経営者が責任を負わされる発語内行為である。つまり、経営責任の履行を説明する会計責任の陳述である。そのような義務や責任を負わせる制度が会計規約の背後にある社会規約として成り立っている。


損益計算書が費用収益対応の合理性を目指せば配分思考になるが、それが所得配分表とみられて収益の費用と利益への分配の適正性を目指せば分配思考になる。どちらが会計本来の見方であろうか。会計物語論は後者の見方に立って構想される。


会計表現は独特の文法表現によって成り立っている。貸借対照表は企業の財務状態を表示し、損益計算書は企業の経営成績を表示する。これは、財務諸表がその対象を字義どおりに表示するリクールのいう第1段の描写的言述の指示作用ではない。第1段の外示が中断されて、その字義どおりの指示作用から隠喩的言表によって展開される第2段の指示作用である。それゆえ、会計は簿記の擬制的な構造に立脚する隠喩的表現の壮大な体系といえよう。つまり、財務諸表の読者は会計情報を隠喩的表現の会計物語とみなければならない。


財務会計基準審議会の財務会計概念に関する報告書は、歴史原価の属性として、資産を取得するために一定額の現金または現金同等物を支払ったという歴史的事実がその資産の属性とみているようである。また、現在原価の属性は同一または類似の資産を現時点で取得するとした場合、支払わなければならない現金または現金同等物の予想される対価とみているようである。これらの測定方法で歴史原価や現在原価を測定するのは同語反復のトートロジーである。


物語行為の主たる任務は、終わりへと至る行為に場を設定することであり、その記述は始めと終わりが両端を成しているような変化についての説明である。著者は時間的全体について言及し、過去を時間的全体へ組織化することが歴史の特性であると述べている。


著者によれば、言語の機能はビューラー以来の三分説が定説である。メルロポンティの用語法によれば、対象の表示、他人への呼びかけ、自我の表出である。それは、認知・指令・評価の情報の3機能とも符合する。ビューラーは最初の叙述機能を中心に考えたが、ポパーは論証機能を追加して4機能としたが、叙述機能は近代科学の記述主義的誤謬につながり、論証機能は検証可能性や反証可能性に通じて、科学と物語の境界設定の錯誤につながる。記述や言語は無益ではないが、それは物語論とそれを支える言語行為論の視点にたって見直される必要があるというのである。


アメリカ公認会計士協会の委員会が1994年に「営業報告の包括モデル」(comprehensive model of business
reporting
)と題する報告書を発表し、その中でディスクロージャーの一環としてスワップやオプションなどの新金融商品の会計と開示が位置付けられている。どちらかといえば、それは財務諸表の枠外の開示に期待しているといえる。著者の見解によれば、会計の機能は意思決定のための情報提供と利害関係者間の利害裁定である。前者につきこのモデルが要求を満たしていることは認めるが、後者については経営者による資本配分の合理的な見方に対する信頼が前提であり、機能を生かしているとはいえないと批判的である。


以上、結論へ至る部分には飛躍があり、私にはやや違和感が残る。しかし関心事が同一の路線を走った上でのものであり、著者が会計の役割を自らの理想に近づけようと、必死に読者の説得を目指した気持ちが伝わる力作であると感じた。



薔薇の名前

薔薇の名前〈上〉
ウンベルト エーコ 河島 英昭

東京創元社
1990-02
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薔薇の名前〈下〉
ウンベルト エーコ 河島 英昭

東京創元社
1990-02
売り上げランキング 10,385

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この書物は1990年1月に初版本が出ているが、わずか1年後の1991年1月の第11版を購入した。


ストーリーは映画化されており、ミステリー小説のベストテン第1位にもなった小説なのでご存知の方も多いと思う。


今考えればこの小説の舞台となった中世イタリアの状況は、いろいろな徴(しるし)に囲まれたいかがわしい世界であったことが読み取れる。


恐ろしい小説になっているがとにかく複雑で深みにはまって行く。複雑さは重層的で、何重にも原因と結果が組み合わさり、何が原因で何が結果か、読んでいるうちにわけがわからなくなる。そしてこれが世の中の真実だと、これでもかと念を押される。入れ子構造、同義反復、複雑さが一方的に増大するところに救いがなくなっていく。


現実の世界はまさにこのようになっていると、とにかく恐ろしい思いのする小説である。中世というよりも今この場所でこのようなことが現実に起こりうるというたぐいのミステリーである。このような混乱がイタリアからバルカンにかけての中世世界を覆っていたのであろうと思うととにかく不気味さを感じた。


また、その後映画も2回見たがやはり気味が悪い。しかし、書物で見たときよりなにか洗練されすっきりとした筋が見えた気がした。どうしてだろう。原作はもっともっと訳がわからなかったのに。


よくわからない先の見えないことほど不安が増幅されることはない。この小説を読むとあらためてそういった思いを新たにする。


偶然と必然

偶然と必然―現代生物学の思想的な問いかけ
ジャック・モノー 渡辺 格 村上 光彦

みすず書房
1972-01
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この書物は、1972年初版本が出版され、私は74年の初版第3刷を買っている


したがって30年前に読んだ書物だが、今でも強烈な印象が残っている。


この書物は、いまや古典中の古典である。進化の意味をこれほど明確に、分かりやすく述べた書物はなかった。ダーウィンの説が何を意味していたか、どのように裏付けられていったか、さまざまな思想、宗教との相違点が述べられている。


説得力のある内容でこの書物によってわたしは、現在あたりまえと認められている進化論の深遠な意味を知った。いやはじめて納得したといってよいだろう。


適応現象が遺伝的に決定されているものであるという新たな発見が、この書物の表題となっていると考えられるが、偶然とは何か、われわれが偶然と考えていることが必然で、必然と考えていることが偶然ではないか、知らないことがこのように物事を見る見方に影響していたのかという思いを抱いた。


したがって、この書物から私の得たものは謙虚に事実を知ることと、事実でないことは深く考える必要があるということであった。


思想・宗教ということが1970年代は世の中を揺るがし、さまざまな政治的動きとあいまってこのような書物も生まれてきたのだと思う。今読んでみるとあらためて当時の熱気が伝わってくるような気がする。それにしても当時の環境で考えれば、非常に冷静な論調であった。


失われた化石記録

失われた化石記録―光合成の謎を解く シリーズ「生命の歴史」〈2〉
ジェイムズ・ウィリアム ショップ 阿部 勝巳

講談社
1998-03
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古細菌の世界を生き生きと描き出している。



古細菌とくにシアノバクテリアの歴史と発見された化石の意味を生き生きと描き出しており、われわれ哺乳類をはじめとする現在の生物がどのような発生の歴史を経てきたか、迫力のある話がつづく。この本を読んでいると生存に最もふさわしい適応性とはなにか。もっとも強い生き物はなにかということを、あらためて考えさせられる。われわれ人類はひ弱で、最も弱い生物ではないか?環境の変化におそらくひとたまりもなく駆逐され、絶滅してしまうであろう。それに引き比べてシアノバクテリアの逞しさと、生存してきた歴史には圧倒される。興奮する一冊の書物であった。



この本は98年3月購入している。


BLOGで2ちゃんねるのひろゆき氏が同じことを興味深く書いている。生命力のある直感に優れた才能はこういったことをきちんと把握しているんだなと変なところで感心した。


自己言及性について

自己言及性について
ニクラス ルーマン Niklas Luhmann 土方 透 大沢 善信

国文社
1996-08
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この書物は1990年に書かれている。ルーマンの著作の中ではめずらしくコンパクトであるが内容は広範囲である。トートロジー、循環という問題に光を当てており、実践を重視した論調は興味深い。


以下印象的な部分を引用させてもらった。


システムの複雑性は、情報の欠如の尺度である。それは、否定的冗長性(リダンダンシー)にとっての尺度であり、実際の観察により引き出された結論の不確実さにとっての尺度である。

これは、すべての人にとって永遠の課題だ。分からないということの原因はどこにあるか、それでもなお、瞬間は決断を迫ってくるのだ。

意味は、複雑性の代理表象である。意味は、意識や社会システムによって用いられる複雑性のイメージやモデルではなく、簡単に言って、強制された選択可能性という不可避な条件のもとで、複雑性を強力に処理する新たな形式である。

これは、世界をどうするかの形式を言っている。意味、責任、判断の基準である。

メディアと形式との区別はエントロピーとネゲントロピーとの区別と競合し、それにとって代わる。エントロピーとネゲントロピーの区別は芸術理論において通用している。しかしながらこの区別は転換の諸過程ではなくて、最終的状態あるいはその代替としての傾向を包含しうるだけだという問題に直面する。(それに対してプリゴジンの散逸構造理論は違った仕方で回答している)

これらは、ヘーゲルを思い起こさせる。しかし、形式とは何だ。世界をどうするかの形式か?プリゴジンが提示したものはきわめて現実的だ。どのように現実の中で物事に対応していくかは、ルーマンの切実な課題であることがよくわかる。

もしわれわれがメディアと形式との区別を付け加えるならば、そのときエントロピー(カオス)からネゲントロピー(秩序)へと導く次元は、秩序と無秩序をともにいっそう可能ならしめる増大の関係として考察されうる。

そうだ、われわれはいっそう強くこの課題に立ち向かわなくてはならない。ルーマンの精神力に乾杯!


天使のおそれ

新版 天使のおそれ―聖なるもののエピステモロジー
グレゴリー ベイトソン メアリー・キャサリン ベイトソン Gregory Bateson Mary Catherine Bateson 星川 淳

青土社
1992-08
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本書は平成4年に購入し、私にはいまでも大きな課題を残してくれている。グレゴリー・ベイトソンと娘がおこなう、感受性の強い会話が印象的である。


生物の獲得形質遺伝の問題で端的にみられることだが、つねに出てくる相互関係は単純な二者関係ではない。この相互関係は獲得形質として確定するのに、受精時に出会う単純な二者択一式の類似性テストをくぐるだけでなく、相互関係が二者関係からより複雑なものになってゆき、収束しようとしても複雑さが一方的に増大するということが言える。

相互関係はこうして、関連はあるけれどもけっして完全な類似性をもたない「命題のネットワーク」どうしをはめあわせたり、ぶつけたりという込み入ったものとなる。そして、この複雑さの増大から導かれる第二の道筋として階層的組織化という事実が浮かび上がってくる。これが描き出そうとしている全体図の一構成要素である。

解決の方策としてはじめに手のつけられる手段が、「階層化」というわけだ。分類・整理はだれしもはじめに物事を解決しようとして考えることだ。自然の中ででも同じ階層にいれば気が付かない新たな形質を、量がまとまることにより新たに獲得するということもある。これは新たなクラスに入らないと分からない。量が質に転化するというオーガニックを想像させる。

現象の複雑さが次第に手におえなくなり始めてくると、それに対処するオーソドックスな手続きとして還元論が威力を発揮する。観察された世界のエレガントな相互連結に与える損傷を最小限に抑えるため、データから一歩退いて、マッピング作業をどう簡略化すればよいかを考えることになる。世界とそれに対するわれわれの関係はこの場合でも生物学的な性質を保存する。

これは、非常に深遠な洞察だ。還元論は最近評判が悪いけれど、バランスを保った状態でなんとか切り抜けていこうと思えばどうしても切捨てが必要になってくる。エイヤーの決断が必要だというわけだ。選択の重要性、不可避性がここで認められる。

この書物の中でも、すべてはつながりにあるわけだから、ようするにわれわれはひとつのトートロジーを地図化しようとしているとの指摘がある。私の関心事である地図ということにはこのような地図もある。そしてこれは人類だけでなく等しく生物全般にいえることといえる。

地図化するとはなんと困難なことか!そしてなんとたやすいことか!


混沌からの秩序

混沌からの秩序
I. プリゴジン I. スタンジェール 伏見 康治 伏見 譲 松枝 秀明

みすず書房
1987-07
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この書物は、複雑性の科学と生成の理論を述べた好著でいまや古典となっている書物である。1984年が刊行年だが現在の科学の行方を的確に予言し、21世紀への課題を提示しているといえるだろう。



時間の意味を明らかにし、生成をテーマとし、生成をどのように定式化することができるか明快に示している。言葉の定義、記述のルールを定めた点でその後の複雑性に関する理論の発展に寄与した功績は非常に大きい。


私がこの本を読んだのは1992年プリゴジン博士が来日した年である。博士の講演を直接聞き、まだ知らなかった世界が広がっていくのを感じた。はじめはぼんやりとしか思想の骨格がわからなかったが、この本を読み、身の回りに見られるごくあたりまえのことを非常にわかりやすく述べていることに気が付いた。


自然界に見られる不思議な現象を解明し、どのように考えるべきかプリゴジン博士の化学者としての知識にもとづく見解が述べられている。そしてこれはそれまで誰も言わなかった考え方である。


しかし、この書物の真価はそれだけにとどまっていない。幅の広いものの見方に教えられることが極めて多く、非常にインパクトの強い書物である。そして今でも私が最も信頼している書物である。社会人となってから触れたこのような思想が、その後の人生の糧になっていることをこのごろ改めて感じている。


この書物は科学であり、文学であり、思想であり、芸術である。博士の誠実な人となり、真実に迫ろうとする気迫がにじみ出るような書物である。私にとって世界観が変わる一冊の書物であった。これまでに読んだ書物の中で真っ先に挙げたい書物である。




Sunday, December 12, 2004

原生計算と存在論的観測

原生計算と存在論的観測―生命と時間、そして原生
郡司 ペギオ‐幸夫

東京大学出版会
2004-07
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著者がこの書物の最後のところで述べている。

我々が「問題を解決した」と出来事に名づけるとき、それは問題発生と同じ状況に対して、無根拠に解決と名づけるに等しい。観察者の行為における解決は、内部観測という立場から、対象におけるシステムに発見=構成される。観察者をして発見=構成されるモデルと指示対象の不一致は、システムにおいて局所と全体という属性の不一致として現れる。我々が、かかる不一致を隠蔽して言葉を使うかのように、システムは局所と全体間の矛盾を隠蔽し、矛盾をものともしないように現前する。しかし、やはり我々が、あるときこの矛盾を起源問題として発見=構成するような状況に、システムは陥る。このとき我々が、モデルにおいて解決するように、システムは、そのモデルにおいて解決し得るようなモデルを、システム内部に構築する。こうして、矛盾を発見し、解決するような局所の担体=システム内部のモデルが、縮退する(相互作用規則)として現れる。それが中枢と呼ばれるのである。

クリプキとウィトゲンシュタインが提示した「言語を使用することと記述することとの違い」の明確に意識される理論構成が展開される。著者の「記述」における陥りやすい存在論への注意喚起がえんえんと続く。しかし、最後に上記の結論へとたどり着く。

上記の議論は異なる論理間の関係として、ブール代数とハイティング代数としてとりあげられている。ある観点で考えた部分と全体の関係は、別な観点で逆転している。同時に我々は、部分と全体を比較可能な概念として並列的に理解することもできる。ここに区別されながらも根拠なき区別であるがゆえに繋がってさえいる内と外の関係が示唆される。