読書記録

読了した書物をアマゾンのリンクで表示しています。当初は感想や要約なども記載していましたが、読むスピードと書くスピードが圧倒的に違うため、断念して書名だけ記載しています。後日書けるようになったら書きます。印象に残った記述は関連のhikaru_fujita blogに感想を書いています。私の写真の下のリンクをクリックしてください。

Sunday, December 12, 2004

原生計算と存在論的観測

原生計算と存在論的観測―生命と時間、そして原生
郡司 ペギオ‐幸夫

東京大学出版会
2004-07
売り上げランキング 219,504

Amazonで詳しく見る
   by G-Tools

著者がこの書物の最後のところで述べている。

我々が「問題を解決した」と出来事に名づけるとき、それは問題発生と同じ状況に対して、無根拠に解決と名づけるに等しい。観察者の行為における解決は、内部観測という立場から、対象におけるシステムに発見=構成される。観察者をして発見=構成されるモデルと指示対象の不一致は、システムにおいて局所と全体という属性の不一致として現れる。我々が、かかる不一致を隠蔽して言葉を使うかのように、システムは局所と全体間の矛盾を隠蔽し、矛盾をものともしないように現前する。しかし、やはり我々が、あるときこの矛盾を起源問題として発見=構成するような状況に、システムは陥る。このとき我々が、モデルにおいて解決するように、システムは、そのモデルにおいて解決し得るようなモデルを、システム内部に構築する。こうして、矛盾を発見し、解決するような局所の担体=システム内部のモデルが、縮退する(相互作用規則)として現れる。それが中枢と呼ばれるのである。

クリプキとウィトゲンシュタインが提示した「言語を使用することと記述することとの違い」の明確に意識される理論構成が展開される。著者の「記述」における陥りやすい存在論への注意喚起がえんえんと続く。しかし、最後に上記の結論へとたどり着く。

上記の議論は異なる論理間の関係として、ブール代数とハイティング代数としてとりあげられている。ある観点で考えた部分と全体の関係は、別な観点で逆転している。同時に我々は、部分と全体を比較可能な概念として並列的に理解することもできる。ここに区別されながらも根拠なき区別であるがゆえに繋がってさえいる内と外の関係が示唆される。