読書記録

読了した書物をアマゾンのリンクで表示しています。当初は感想や要約なども記載していましたが、読むスピードと書くスピードが圧倒的に違うため、断念して書名だけ記載しています。後日書けるようになったら書きます。印象に残った記述は関連のhikaru_fujita blogに感想を書いています。私の写真の下のリンクをクリックしてください。

Wednesday, February 16, 2005

存在と時間

存在と時間 上 (1)
マルティン・ハイデッガー 桑木 務 Martin Heidegger

岩波書店 1960-01
売り上げランキング : 253,959

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存在と時間 中 (2)
マルティン・ハイデッガー 桑木 務 Martin Heidegger

岩波書店 1960-01
売り上げランキング : 75,333

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存在と時間 下  岩波文庫 青 651-3
マルティン・ハイデッガー 桑木 務 Martin Heidegger

岩波書店 1963-01
売り上げランキング : 73,255

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貨幣とは何だろうか

貨幣とは何だろうか
今村 仁司

筑摩書房 1994-09
売り上げランキング : 287,495

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著者の深い洞察が非常に読み応えのある1冊である。以下その抜粋等。

* この書物ではマルセルモースの記述を次のように引用し、貨幣の背後にあるものを描いている。

「タオンガは、少なくともマオリの法と宗教の理論では、人格、氏族、土地に強く結びついている。それらは、そのマナ、呪術的、宗教的、精霊的な力の媒体である。・・それらは、それらを受け取った個人を破壊する祈りが込められている。」

* 歴史的に存在した贈与財は、返戻を強要する。それは贈与財のなかにある死の表象(観念)である。だから債務(借り)もまたもともとは死の表象を含んでいるのだ。贈与と返戻、債務と返済の循環を強制するものは、それに関与する当事者の意識あるいは自己解釈がどうあれ、社会関係を「もとのままに維持すること」という広義の法的理念である。過剰も過少もなく、貧富の可能なかぎりの平準化をもたらすことを、関係の復元力、あるいは原状復帰力と呼ぶならば、贈与財のなかの死の観念は、この力の宗教的代理であると定義することができよう。

 

* まず、ジンメル・ウエーバー・ルカーチ・ベンヤミンとつづく思想史をマルクスが提出した問いを決定論から解放し、経済と他の文化領域との関係を正当な問いにつくりなおす歴史と位置付けこれを概観している。



* ジンメルは、人間の関係付けを距離化の原理で検討した。距離をつくりだす一方で同時にその距離を特定の幅のなかに収拾することとして理解した。すなわち人間は原初の距離化から生まれた死の表象を、物あるいは制度の形で外部化して、生と死の「近さ」の恐怖から解放されようとしてきた。

* 世界のなかで複数の他人とともに生きるという人間の社会的存在のあり方は、死の観念を抱えた関係の外部化、関係の結晶化であり、死を体現する媒介の媒介という重層構造なのである。貨幣形式も言語形式も文字形式も、媒介形式であるかぎり、死の遠ざけと近づけの力学に支配されている。

* ジンメルが語る文化の形成力としての媒介形式(法・知性・貨幣)は、ある意味で悪魔的である。彼は形式を平板に語るのではなく、形式が悪の側面を莫大に拡大することをも指摘する。

* すなわち、ジンメルは人間が関係的存在として存在するかぎり、関係の結晶としての貨幣(その意味では「道具」であるが)は人間の宿命的本質であり、人間から言語が廃棄できないように、貨幣も廃棄できない。貨幣形式は不滅であると述べたのだ。

 

* ゲーテの「親和力」を貨幣小説と位置付け、次のような解釈を呈示している。

* 罪なき人々が犠牲になること、まさにここに人間関係の根源がある。人間存在の根源は、カオスという神話的観念がまさに正確に把握しているものであり、そこでは死が溢れている。そこでは犠牲者となることは、特定の誰かに決まっているのではない。任意の誰もが犠牲者になりうる。そこが恐怖の源泉である。

* そして、ベンヤミンの言葉を借りて、ゲーテの世界観をこう述べる。

* 「このような世界観のなかにあるものは混沌(das chaos)である。というのは、神話のもつ生命とは、この混沌のなかに流れ込み、支配者もなく境界もなしに、存在するものの領域のなかにおける唯一の力として、おのずからの場所を占めるものだ」

* 混沌とは、無差別の状態である。差異がある状態とは、関係を媒介するものが制度として確立し、関係を結ぶそれぞれの項がくっきりした姿をとっている状態であって、普通それは社会関係と呼ばれる。だから混沌という無差別状態は、社会関係の解体した状態、つまり媒介なき状態である。混沌を別の言葉でいいなおすと、それは項と項の差異がないのだから、境界のない状態である。だから、この状態では境界のないものが圧倒的な勢力をもっている。境界なきもの、それがデモーニッシュなものである。

* そして、デモーニッシュな力のそうした特異な効果が発揮される場所がただひとつ、人間の世界にはある。それが媒介形式の場所なのだ。媒介形式は、制限と境界で区画された関係(これを差異関係あるいは社会関係という)を生成させる原点になる。媒介形式の場所(トポス)は、カオスとデモーニッシュなものの世界との蝶番ないし交差点になっている。

 

* 著者は、これらの分析から以下の結論を得る。

* 貨幣は「関係の結晶化」であり、関係を構成する時間と空間の動きを結晶化している。

* 媒介形式としての貨幣は、一方では、過去の一切の時間(たとえそれが人間の想像を超えるほどに莫大であるとしても)を現在の経験世界の1個の物体に圧縮し縮減するという不可思議なはたらきをする。他方では、人間関係を解体し悲惨な結果を生み出しながらも、関係を分化させ多様にし、ひいては全地球の産物を思いもよらぬ仕方で再結合する。

* 要するに、貨幣という形式は血の流れる犠牲の代理でありながら、まさに犠牲の代理であるという場所性によって両義的な魔力の保存者でもある。

 

* そして、言語と貨幣のパラレルな関係についてルソーを引き合いにして説明する。

* 自然言語はルソーが否定的に語った分節言語に最初から侵食されているのであり、代理と媒介によってはじめて可能になっている。媒介形式のない関係は、人間が人間であるかぎりは存在し得ない。ルソーは媒介者への嫌悪という否定的態度から語りながら、むしろかえって関係の媒介性の原理的意味を裏から証明しているといえる。

* 素材貨幣はなくしたり代替できるが、形式としての貨幣は廃棄不可能である。なぜならそれは、人間関係に内在する暴力の制度的回避の装置であるからだ。しかしわれわれは、貨幣や商品の優越的支配が別の災厄をもたらすことも知っている。この両面を承知しつつ、同時にこの隘路をどうきりぬけるのか。これが貨幣と精神との格闘の長い歴史が教えることである。

荘子

荘子 第1冊 内篇 (1)
荘子 金谷 治

岩波書店 1971-01
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荘子は世俗を捨てた人の思想と言われている。私はとても世俗を捨てるまで枯れているわけではないが、若い頃からなぜか荘子の魅力に惹きつけられている。孔子と対照的なその思想はいろいろなところで私が関心を持った人の考え方の背後にあった。



以下気になるフレーズをいくつか拾っている。(漢字の記載ができないので金谷現代語訳で記載)

* 斉物論篇第二の三

そもそも、ものを言うのは、音を吹き出すことではない。ものを言ったばあいには言葉の意味がある。その言った言葉の意味がまだあいまいで落ちつかないのなら、はたしてものを言ったことになるのか、それとも言わないのと同じなのか。「もちろん言わないのと同じだ。」それでも雛鳥の鳴き声とは違うといったところで、そこに区別があるのか、それとも区別がないのか。「結局、区別がない。そして、俗人の言葉にはこういうのが多い。」道は「ただひとつの真実であるはずなのに」いったいどうして真実と虚偽とがあらわれたのか。言葉は「もともと素朴であるはずなのに」いったいどうして善し悪しの判断があらわれたのか。真実の道はどこにでも存在しているし、素朴な言葉はどんな場合にも肯けがわれる。道は小さいでき上がりにとらわれることから「真偽を生み」、言葉ははなやかな修飾にとらわれることから「善し悪しを生んだ」。<中略>

* 彼と此れとがその対立をなくしてしまった(-対立を超えた絶対の)境地、それを道枢「-道の枢(とぼそ)」という。枢であってこそ環の中心にいて窮まりない変転に対処できる。<中略>だから、「善し悪しを立てるのは」真の明智を用いる立場に及ばない。

* 斉物論篇第二の四 

一方での分散は他方では完成であり、一方での完成は他方では破壊である。すべての事物は、完成といわず破壊といわず、みなひとしく一つのものである。ただ道に達した者だけが、みなひとしく一つであることをわきまえて、そのために自分の判断を働かせないで平常「ありきたりの自然さ」にまかせていく。平常ということは働きのあることであり、働くということは広くゆきわたることであり、ゆきわたるということは自得「すなわち自己の本分をとげて自己の生を楽しむこと」である。

* 斉物論篇第二の六

そもそも分類するということは分類しないものを残すことであり、区別するということは区別しないものを残すことである。それはどういうことか。聖人は道をそのままわが胸に収めるのであるが、一般の人は道に区別を立ててそれを他人に示すのである。そこで、区別するということは「道について」見ないところを残している、というのである。

 

* 則陽篇第二十五の九

少知はまたたずねた、「世界の始めについて、」季真はしわざをする主宰者などはいないと主張し、接子は万物を使役する主宰者がいると主張していますが、この二派の議論は、どちらが真実にかない、どちらが条理をはずれているのでしょうか。 

* 大公調は答えた、(鶏が鳴き犬が吠えるという現実は、これはだれにでもわかっていることだ。しかし、どんなすぐれた知恵者でも、「鶏や犬が生まれてきた」その自然の造化の働きを、言葉によってはっきりと説明することなどはできない。またその造化がこれからなにをしようとしているかということも、心によって推しはかることなどはできない。「造化のはたらきは、」分割して小さくしていく場合には、その微小なものは形をもたないところまでゆくだろうし、大きいとなれば、それは何ものにもわくづけられないところまでゆくだろう。「この世界の始めについて、」使役する主宰者がいるとか、しわざをする主宰者などはいないとかいう議論は、現象の物の世界にしばられたもので、要するに誤ったことである。使役するものがいるといえば、実質的な存在があることになり、しわざをするものはいないといえば、なにもない空虚になる。名称があり実質があるとする「前者の」立場では、この存在の世界にとどまっており、名称もなく実質もないとする「後者の空虚な」立場では、虚無にとらわれている。口で言うのも心で憶測するのもよかろうが、言えば言うほどいよいよ真実からは遠ざかるのだ。<中略>真実の道は、有るということもできなければ、また無いということもできない。道という名称そのものが、実は仮に用いられているだけのものだ。使役するものがいるとかしわざをするものはいないとかいうのは、現象的な存在の一部を言いあらわしているだけで、そもそも現象をこえた大道とは比べものにならない。もし言葉がそれで「真実をあらわすのに」十分なものであるなら、一日じゅう話しつづけてそのすべてが道をあらわしているということになるが、言葉が十分なものではないなら、一日じゅう話しつづけてもすべて現象の物の世界を語っているにすぎない。道と物とのさらに究極の真実世界は、言葉と沈黙のやりとりでは把握することはできない。言葉として話すのでもなく沈黙を守るのでもなく、議論はそこでつきはててしまう。「そこに真実があらわれるのだ。」

 

物理と認識

物理と認識
ヴォルフガング・パウリ 藤田 純一

講談社 1975-09
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自然界と人間の運命

自然界と人間の運命
コンラート ローレンツ 谷口 茂

思索社 1990-01
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Friday, February 11, 2005

セキュリティポリシーとリスク評価

ゲーム理論を読みとく

ゲーム理論を読みとく
竹田 茂夫

筑摩書房 2004-11-09
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芭蕉の方法

芭蕉の方法―連句というコミュニケーション
宮脇 真彦

角川書店 2002-05
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9・11アメリカに報復する資格はない

9・11―アメリカに報復する資格はない!
ノーム チョムスキー Noam Chomsky 山崎 淳

文芸春秋 2002-09
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シェークスピアは誰ですか?

シェークスピアは誰ですか?―計量文献学の世界
村上 征勝

文芸春秋 2004-10
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精神の生態学

精神の生態学
グレゴリー ベイトソン Gregory Bateson 佐藤 良明

新思索社 2000-02
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精神の生態学は非常に奥の深い書物だ。分け入っても、分け入っても核心に到達しない。
問題提起は重大で、簡単な話はひとつもない。
さしあたり、私が気になる問題提起として自らに課しているものと同一の指摘の記述があるが、これなどは普通の人は一生かかっても解決できるしろものではない。
とにかく問題が大きすぎる。
以下は私のベイトソンに関するグループURL
いろいろな人の知恵を借りたい。
Gregory Bateson  Discussion Group