批判理論と社会システム理論
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私が購入して読んだのは、1994年第1版第3刷
翻訳者のコメントもなるほどよく調査しているなと思ったが、感心したのは若かりしルーマンがその認識論の骨格を既に明確に示していたこと。
ハーバーマスから提示された真理問題の反論において、メディア論を展開しているところがおもしろかった。
反論の核心はつぎのくだり(邦訳475ページ)
ハーバーマスはシステム理論についての私の見方の場合にもパーソンズの場合にも、二重の真理概念を必要とみなし、またこの必要を同時に、そのような理論の必要性をしめ出す、ひとつのアポリアとみなすであろう。これは心理学主義的ないし社会学主義的な真理理論に対する周知の、私自身もさしあたり承認している一論拠である。そこでこの論拠を敷衍してみて、その正体をあばかなければならない。すなわち、真理に関するあらゆる命題はある第二の真理概念を必要とする、科学はそれゆえ、この問題を異なる概念水準間の関係を規制することによって内部的に解決する立場になければならない、と。ハーバーマスはこの理解では問題を解くことができないとみなしているようである。このアポリアの代わりに彼は、討議を技術関連と実践関連から一時的に解放された一種の幕間劇として定立する。それは諸真理を妥当性要求の真理として解き明かすのである。討議は実践的な出会いにおいてはつねに前々から含意されたものとして導入されている。つまり理性的人間、発話する存在はつねに前々からこの可能性に関わりあってしまっている。討議がうまくいくことや、その成果が実践に逆に媒介されることがどのようにして達成されうるのかは、不明なままである。しかしここには暗黙にではあるが、この伝達の働きを提供する、したがって討議と討議の理念化された諸条件を手渡す、あるメディアが前提されている。ハーバーマスもまた討議の諸条件に縛られない第二の真理概念ーー即ち獲得された合意の行使権ーーを用いている。そのほかの点では私は、討議によって理念化される真理概念には、私たちが前提にしてきた問題の過小評価と、言語の過大評価が暗黙に含まれていると考える。非常に大きな複雑性は体験への行為の関与なしには縮減され得ないということが正しいとすれば、行為から解放された討議は失敗に終わると判断される。複雑性の問題を提出しない場合には、討議は観念としてのみ維持されうるにすぎない。
認識と行為の問題は、システム分化としてもあるいは日常言語の含みの問題としても適切に提起され得ない、むしろ直接これに取り組むほうがよいように私には思われる。私の見解はこうである。社会的複雑性の増大は、他の諸メディアからの分離の中で真理という一つの体験限定的メディアの日常言語からの分立を必要とする。(あるいはその場合にのみ可能である)ということである。この分立過程は、しかるべき分化によって支えられるのであり、またその過程の様々な問題解決のなかで安定化される。それとともに行為の選択性が体験の選択性の条件として問題化する。到達した進化水準ではこの問題は、生活世界の自明性の形式では、つまりなにかあることをわかるためには通じていなければならない自明性によってはもはや解決されえなくなる。真理はそれゆえもはや人々がそのなかで行為によって動きまわる現存する世界の形式をとらない。現存する世界の中で人々はしかるべく振る舞い、またしかるべき振る舞いをしかるべき経験によって他の人々の場合にも仮定しながら、さまざまな経験を積み、かくして経験の一様性が主体の相異性と行動のしかるべき時間の移動とを中和化する。むしろ生活世界では釣り合いのとれていた(そして当然ながら相変わらず釣り合っている)、体験と行為の関係はより大きな複雑性の条件の下では行為システムである科学のなかで再組織化されなければならない。科学システムの脈絡のなかでは真理の体験関連は、探究行為の理論的諸構造と諸方法のしかるべき複雑性の要請として再構成される。体験の選択性の世界帰属はシステム内部の受容力の要請という特殊な形式をとり、かくしてそのシステムにとって可能なメディアに変形される。同時にシステム独自の行為の選択性の中和化は次のようにして達成される。即ち、システムと環境世界との間の複雑性の落差はシステムのなかで適切な理解可能性の規準に変形されるということである。真理はそれが成功する度合にかかっている。それが成功する限りで言えば、科学的知識は、科学的知識が世界を忠実に模写するからではなく、むしろしかるべき複雑性をもち、しかるがゆえに伝達可能であるから真理なのである。この意味において、すなわち複雑性との共通の関係においてのみ理論的実践はその他の社会領域の生活世界的実践と同一視されるのである。
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